JP / EN

大谷石について
はじめに
大谷石は、栃木県宇都宮市の中心から西北約8kmの大谷町(旧城山村荒針)を中心に、東西約4km、南北に約6kmにわたって分布しています。大谷町で産するところから通称大谷石と言われていますが、地質岩石学上の名称は「流紋岩質溶結凝灰岩」という凝灰岩の一種です。国内では他にも、いろいろな凝灰岩が採掘利用されている場所が複数ありますが、いずれも極めて小規模のもの。大谷は、古くから大規模に採掘が続けられている、世界的にもあまり例がない希少な場所です。その埋蔵量は約6億トンと推定され、採掘箇所は約200箇所(廃坑も含む)。そのうち現在稼働中のものは6箇所、年間約1万トン程度を出荷しています。一部露天掘りも行われていますが、大部分は地下採掘。地下数10メートルから100メートル以上の深い坑底で坑内掘を行っています。
大谷石利用の歴史
大谷石が使用されたもっとも古い記録は、栃木県内の壬生町車塚古墳と間々田町千駄塚付近百塚。約1500年前の大谷石の石棺が発掘されています。

【西暦795年】
天平13年の国分寺建立で、土台に使用される。

【西暦1063年】
第70代後冷泉天皇の康平6年に宇都宮氏の祖、宗円が宇都宮城築城で使用する。

【西暦1375年】
永和年間宇都宮市内の興善寺境内に大谷石の五輪塔を建立。

【西暦1620年】
元和6年、城主本多上野介正純が領内田野村から大谷石を採取し城郭普請に使用。
(昭和11年、城の旧本丸跡に大谷石の地下道が発掘されている。)

【西暦1721年】
享保6年鬼怒川の水利を利用し、筏で江戸に搬出。
当時江戸の隅田川沿いには大谷石を扱った問屋が6軒を数えていた。
船着き場は、石井町の鬼怒川利用説と幕田町からの姿川利用説がある。

【西暦1785年】
弘化3年、宇都宮二荒山神社の石垣修築の際大量に使用
【明治年間】明治に入り交通の発展と共に、東京をはじめ関東一円に販売網が広がる。

【西暦1922年】
大正11年、旧帝国ホテルがアメリカの建築家ライト設計により大谷石で建築される。 大正12年9月、関東大震災が発生。帝国ホテルは焼け残り、耐火耐震に優れていることを立証、
一躍声価を高めた(現在、旧帝国ホテルの一部は、愛知県犬山市の明治村に移設保存されている)。
大谷石の輸送
江戸期から明治の初期までは、舟運の他に馬の背を利用(一頭で五十石を左右一本ずつ乗せる)。明治30年の「宇都宮軌道運輸株式会社」開業以降、軌道による輸送に変わる。「宇都宮軌道運輸株式会社」は昭和6年に「東武鉄道」に吸収合併され、本格的な鉄道輸送の時代となる。以降輸送革命の時代を経て、大谷石輸送のための鉄道は昭和36年を以って全て廃線。一部遠距離の貨車輸送を残して、輸送の主役はトラックへと移り変わり現在に至る。
大谷石採掘の機械化
戦時中、農業耕運機式のアイデアで機械化に着手した事はあったが、成功には至らなかった。昭和27年、大谷石材協同組合内に機械化研究委員会発足。昭和29年には県補助金により組合加工場を設置。大谷石を板状に裁断して表面を化粧削りにするための裁断機を2台設置した。採掘機も昭和30年8月チェーン式採掘機の試作に成功し、その後改良を重ね、昭和34年頃には全採石場が機械化。裁断機も化粧削機と共に一台にまとめられた。この成功は、偶然フランスから取り寄せた採石機のチェーンがヒントになって実現したものである。